2008-08-30

やめさせることよりも,そのような人はならないことでは

またもや代議士の事務所問題が報道されています。

このようなことが発覚すると,ほとんどの場合マスコミはやめさせることに終始した対応をします。

見ている方は,あきれるやら,いさぎ悪さなりを感じるのではないでしょうか。

やめさせることなのでしょうか。

そうではなく,そのような資質の方はならないことではないでしょうか。

つまり,自分を律することができない方はならないことしかないのではないでしょうか。

飲酒運転が悲惨な事件があれだけ起きても,飲酒運転がなくならいことに似ているのではないでしょうか。

いくら刑罰を重いものにしても,やる人はなくならないことがいい例です。

事務所問題だけではありませんが,この問題一つを取り上げても,問題が起きないようにするような対処ではなくならないのではないでしょうか。

やはり,そのようなことに手を染めない律することができる方がなることだと思いのですが。

いかがでしょうか。

2008-08-26

この結果の起因はダイナミックレンジの大きさでは

どうして日本人はオリンピックにありえないような力が出すようなことがないのでしょう。

このような疑問に,何となく,日本の風土である農耕民族の習性にそのルーツがあると言うような解説が多くあると思います。

そのような解説にいつも行ってしまっていいのでしょうか。

一因には,行動のダイナミックレンジ(動的大小差範囲)は狭いことがあるのではないでしょうか。

欧米人はダイナミックレンジが広く,思い切り大きなパワーと言った時の大きさが,日本人が思い切り大きいと言う時の大きさに比べて,その差が大きなものになっているように思えるのです。

例えば,モダンジャズ酒場で彼らが奇声をあげて聞いている場に遭遇した時,あまりにもの大きさに驚かされたことがありました。

比較になりません。

といっても,同じ場で静かな時には本当に静かに聞き入っているのです。

その差にも驚きました。

このようにダイナミックレンジの大きさが,ここぞと言う時に出てくる結果が,今回のオリンピックの活躍の差と考えるのはあまりにも短絡しすぎでしょうか。

しかし,どこかに起因していると思えてなりません。

2008-08-18

設計するという考え方を育てることが必要では

商品なりに接した際に,これをこうすればもっと使いやすいのに,と思われる人がどの程度いるでしょうか。

全くないということは無いにしろ,多くの方は与えられた機能なりを受け入れているのではないでしょうか。

自ら設計する人に置き換えて考える人は少ないのではないでしょうか。

それは設計する経験がないことから来る習性ではないでしょうか。

設計する経験を持った方なら,設計者は自ら設計した製品を使ってないのではとか,経験が少ない人が設計しているのではと,感じることがあるのではないでしょうか。

つまり設計するという考えがなければ,そのような感覚は生まれないように感じるのですが,いかがでしょうか。

現在の教育には「設計する」というような感覚を育てることが無いのではないでしょうか。

保険制度なり,予算配分の仕方なりを批判するする場合に,制度を設計するような視点なりが発揮されていないのではないでしょうか。

今まさに必要なことは,与えられた枠組みをただ無批判に受け入れることではなく,自ら設計するといったアプローチを実践できることではないでしょうか。

今からでも遅くはないでしょう。

早期に「設計する」との概念を醸成できる教育をすべきと思うのですが。

いかがでしょうか。

2008-08-16

北京の柔道競技の結果から考える

なんと男子柔道の獲得メダルは2個との報道。
驚くばかりの結果です。

内容も完敗でした。

まさにわが国の現状を反映しているように思えてなりません。

ドメスティック競技の一つではないでしょうか。

つまり,ルールは国際で,わが国の行っているスポーツは国内の技で勝負しているように感じるのです。

今回の結果だけではありませんが,この所をよく考えないといけないのではないでしょうか。

ルールが国際的なものであれば,勝負に勝つためにはそのルールに合った戦略が必要なはずです。

しかし,そのような対応が行われていないのではないでしょうか。

男子の結果はそのことを如実に表しているように思えてなりません。

指導者もそのことに気付いていないのではないでしょうか。

もしも報道されているように「一本勝ち」を柔道と考えているのなら,ルールを変えることが先決です。

ルールを今のままで,点数を重ねての柔道は・・・・と言っても始まらないはずです。

一本勝ちでなければ勝負がつかないルールを打ち立てるべきです。

指導者はその役割を果たす必要があります。

例えば,レスリングのように,上半身と立ち技だけのスタイルと,下半身も入れた立ち技だけのスタイルやフリーのスタイルなどをルールに設ける方法です。

そして,国内では一本勝ちで勝負がつくルールとフリーのルールだけで競技を行い,国際的は他のルールも許容して行くのです。

このような抜本的な対処が必要な時期に来ているのではないでしょうか。

JUDOUが国際的な競技であれが,柔道を国内的な競技にして伝統を残すべきです。

柔道は相撲のような形態で残すのです。

しかし,JUDOUを行う場合には複数のルールからなるスタイルをわが国から提案して柔道本来の面白さも残せるようにして行くべきと考えますが。

いかがでしょうか。

2008-08-13

役割と責任を明確にした枠組みの再構築を

汚職,税金の無駄使い,偽装など問題が噴出している昨今,政策や法律などを策定している官僚,大臣などの責任に相当することに言及する機会が増えてきています。

いまこそ,担当責任者とその長の役割と責任を明確にした枠組みを構築し直す時期ではないでしょうか。

この部分を曖昧にしたまま物事を判断していても,間違わない判断は期待できないのではないでしょうか。

報酬の問題もからんでくると思います。

偉い地位にあるから報酬が高くあるのではなく,責任が重く,責任をとるリスクがあるから高いと考える,考え方があります。

しかし,今問題になっていることに関しては,多くの場合,係っている担当責任者とその長の役割と責任が不明確になっていることから,曖昧な対処で事がすまされているのではないでしょうか。

どこまでを誰が判断・決定して,責任はどこまでの範囲かを明確にした決定機構を持たない限り,いつまでも問題を先延ばししているような状況を招くのではないかと思うのですが。

最近の社会保険庁の問題などを見ていますと,長の責任があまりにも問われなすぎではないでしょうか。

いままで役割と責任が不明確なまま来たのではあれば,この時点でそれらを明確にした枠組みの構築が必須と思うのですが。

いかがでしょうか。

2008-08-11

言い続けることが必要では

最近は「恥ずかしいことだよ」とか「悪いことをするとお巡りさんに怒られるよ」てなことは聞かなくなったし,口に出すことがなくなったのではないでしょうか。

そう思うと,自分でも子供に対して言わなかったなと実感するのです。

確かに自分の親世代は言っていました。

一寸したことに必ずと言っていいほど言われたものでした。

自分の親だけでなく,近所の親世代の人たちは子供に言っていました。

聞いて育ったわれわれ世代はどうかと言えば,言ってこなかったのではないでしょうか。

自分の場合で考えると,なにか白々しくて「恥ずかしいことだよ」とか「悪いことをすると・・・」とは言えなかったように思います。

言われて来たときも,何か白々しかったようにも記憶があります。

しかし,このような言葉を聞かなくなった世代は,今後言わないでしょうし,吉本隆明ではありませんが,共同幻想のような共通した幻想を持ち合わせない世代が生まれてきたのではないでしょうか。

このことが,いろいろな事柄を抑制する幻想を造り上げることがなくなってることの一因と考えるのは短絡しすぎでしょうか。

さらに言えば,これらの言葉はかなり頻度高く言われていた記憶があります。

何か気付くことがあれば,親世代の人々は,その都度すぐに口にしていたのです。

現在のような状況を考えますと,何か目にしたら即その場で口にできるような社会を取り戻すことが必要な時期に来ているのではないでしょうか。

現代,これからの時代にあった言い方を新たに造り上げながらかもしれませんが。

2008-08-08

大臣の役割は何なのでしょうか

国家公務員の問題ばかりが報道されていますが,それを助長してきたのは政治ではないでしょうか。

政治と言ってしまうと誰の責任なのか分からなくなってしまうのですが。

政治家なり,大臣なりでしょうか。

国家公務員,特に高位の官僚の人事は政治がからみ,その長は大臣なりであったはずです。

また口を挟むところとしては,与党の代議士でしょう。

つまり,政治が牛耳っていると考えるのが妥当でしょう。

いかにも官僚だけが槍玉にあがっていますが,本当にそこだけが問題なのでしょうか。

どちらかと言えば,政治の方に問題があったのではないでしょうか。

いろいろな問題を放置したり,利益を優先して判断したり,政治に問題があったツケが今顕在化して来ているのではないでしょうか。

このように考えると,大臣の役割とは何なのかと考えさせられてしまいます。

何かはっきりしていないのではないでしょうか。

実務は官僚が検討し,実践しているわけですから,大臣は何をする人なのでしょうか。

いままさに,この役割を明確にして,その役割に応えられる人材を発掘することだと思うのですが,いかがでしょうか。

2008-08-04

何故高層ビルでなければならなかったのでしょうか

米国の都市部では高層ビルがありますが,地方では意外と平屋があるのには驚かされたことがあります。

あのように広い国でありながら,何故高層ビルが立ち並んでいるのでしょう。なにか首を傾けてしまうのですが。

広いから平屋でとは短絡的かもしれませんが,どうしても理解ができないのです。

最近では,モンゴルの首都や,アジア,中東の国々でも高層ビルが建てられています。

なにか勘違いされては,いないでしょうか。

確かに平屋よりも高層ビルは建築技術的言えば高度の技術だとは推察します。

だからと言って,平面が広く,人口の密集もそれほどでないところに高層ビルはないのではないでしょうか。

高層ビルがあると何か先進国になるような錯覚は醸成されていないでしょうか。

最近の話題で言えば,高層ビルはエコとでも言うのでしょうか。

そうとも思えません。

ここで高層ビルが地球規模で,本当に必要なのか考える時期に来ているのではないでしょうか。

最近,どちらかと言えば,歩けて生活ができ,平屋の建物で造られた都市の出現を期待しています。

いかがでしょうか。

2008-07-21

裁判でない枠組みが必要ではないでしょうか

若年者による殺人事件,教育界の偽装,食の偽装などの真実を求める場として裁判ではない場が必要ではないでしょうか。

裁判は真実を暴くことのできる場ではないと思います。

犯罪の客観的な証拠を元に,モデル化された犯罪の要件に照らし合わせて,刑を決定する場だと思うのです。

ここでは真の原因を追求して,是正するところまで行う枠組みはありません。

今必要としているのは刑を科すことだけでなく,是正できるようにするための原因を見つけだすことだと思うのです。

刑を科すだけでは抑止することはできません。

抑止するようにするためには,どのような理由なり,条件なりで事件が起こされたのかを,当事者の心理状態まで入り込んだ原因究明が必要ではないでしょうか。

自白が証拠にならない現行の裁判の枠組み中では,当事者に入り込んだ形での原因は明らかに成るはずがありません。

裁判では駄目であるのなら,他の枠組みで,現代の不正を根本から正すための枠組みが必要と思うのですが,いかがでようか。

2008-07-14

コスト観念の教育が必要では

コストは作ったときだけでなく,その後も結構かかるものです。

例えば社会保険庁のお金で施設を造った時の金額が浪費と言われていますが,それだけなのでしょうか。

一度施設を造ると,照明や冷暖房のための電気代や,床などの掃除代や,設備の維持やサービスをする人件費,設備の修繕費など,建設後にかかる費用もあり,ばかにならない金額なのです。

このように何か作れば必ず,作るときおよび作った後に必ずコストがかかるのです。

このこと,つまり作った後にもコストが発生して,しかもばかにならない程の金額になることの知識があることも重要なことなのです。

つまり,無駄はそこまであるのです。

報道されている金額は,ここでいう作ったときの金額なのです。

ですから,金額が報道されたら,それはどこまで入れて計算された金額なのかが判断できる知識が必要なのです。

さらに言えば,作られたものがコストに見合った価値を持ったものであるかも,判断できることが必要となるのです。

ところでこのようなことが教えられて来ているのでしょうか。

今まさに学者指向の教育ではなく,自ら判断できる知恵を育てる教育が必要ではないでしょうか。

2008-07-11

芸能人の報道も影響しているのでは

また芸能人の不倫報道が大きく報道されています。

世の中の道徳観なり,倫理観を危うくしている一因の一つにあげられないでしょうか。

もっとも同時に報道されている大分県の教育分野の汚職なども大なり小なり危うくしているとは思いますが。

偽装問題も,高級官僚の厚遇なども一因でしょう。

何故かと言えば,昭和30年代はあまりこのような問題に踏み込んだ報道が無かったとの記憶があるからです。

知らされていなかったのです。

勿論知らされていなかったことは問題ですが,内部まで覗き見るようなことは不可能だったのです。一般庶民は。

ここで一気に暴かれてきたのです。

食の偽装の時の発言ではありませんが,「以前から行われてきたこと」「どこでもやっている」とかの発言がその証拠です。

これらを見せつけられてきた庶民感覚には「えー!偉い人もやってるじゃん」という感覚ではないでしょうか。偉い人ではありませんが。

俗に道徳的でないことも,倫理的でないこともやっており,しかも,しかられることもなく笑いながら受け入れられているのです。

以前(昭和30年代)であれば,ありえない光景です。恥ずかしいという感覚があったと思うのです。

恥ずかしがることもなく,辞めさせられることもなく,芸能分野も,官僚分野でも,いけシャーシャーと居ることができる姿を見せられ続けているのです。

いつのまにかそれらは,恥ずかしいことではないように刷り込められてしまっていると考える仮説は立てられないものでしょうか。

今一度,芸能人の報道のあり方と,対処の仕方を見直していただきたいと思うのは私一人でしょうか。

2008-07-08

裁判の判決になんとなく疑問が

強盗殺人で無期が求刑された事件で,強盗と認められる証拠が不十分なことから,殺人事件と看做して18年の刑期が言い渡されたとの報道がありました。

裁判は証拠にもとづくものであり,証拠がなければ罪を犯したとして裁くことはできないことは分かっているつもりです。

しかし,強盗であろうが,なかろうが人,一人の命を奪っているのです。

何か違いがあるのでしょうか。

つまり,殺人と強盗殺人で差があるということに疑義を感じざると得ないのです。

確かに現在の刑法は,予め定められた刑期が明らかにされていなければならない罪刑法定主義を採っているわけですから,殺人と強盗殺人は類似の要件の犯罪ではありますが,異なる犯罪なのでしょう。

しかし,ともに人の命を奪った犯罪です。

人の命は尊大で,大切と言われ,そのとおりだと思えば思うほど,判決ってなんなんだろうと思うのは私だけでしょうか。

今の裁判制度は以前にも書きましたが,犯罪のモデルに当てはめて,その刑期を言い渡すものと考えますと,モデルがへなちょこりんということにはならないでしょうか。

命を奪ったたらそれなりの刑期が言い渡されるべきではないでしょうか。

18年などというのは言語道断です。

人の命を奪ったのなら,それに同等の刑期にすべきと考えますが,いかがでしょうか。

被害者の権利よりも,加害者の権利が厚く守られているような刑法は,見直されることが必要ではないでしょうか。

2008-07-03

高層のビルディングは米国のコピーでは

高層のビルをわが国でも競って建設しています。

中国でも。ドバイでも。

しかし,欧州の国々で高層のビルは特定の地域にはあるとは思いますが,中心地に数多く存在しないのではないでしょうか。

最近のBSハイビジョンの番組をご覧になっていらっしゃる方がならば,お気づきではないでしょうか。

江戸から明治の時代には欧州の真似をしてきたわが国の建築は,戦後米国をお手本にしていることからなのでしょう。

明治の時代には,下級武士出身の建築家が日本の建築方式を体系化することなく,建築物に欧州の技術を導入して修復してきたのは,唐招提寺の例でも明らかです。

戦後は,それに加えて米国の真似をしているように感じるのですが。

真似をしているのはしょうがないとして,日本の建築様式が体系化されておらず,さらに発展されていないことに疑義を感じるこのごろです。

前橋市に行くと地上127mの群馬県庁がぽつんと立っています。

何でこの地域に高層ビルを立てることが必要だったのだろうと,本当に首を傾けてしまいます。

まさか横浜市の新しい市庁舎も高層ビルを考えているのではとも心配してしまいます。

高層ではない日本の建築の優位さをもっと主張した建築なり,地域開発なりを推し進めて行くことが必要な時期に来ているのではないでしょうか。

2008-07-02

恥ずかしい気持ちの回復が必要では

ベネディクトの「菊と刀」で日本の恥の文化が紹介されたのは1948年ですから,今から62年前です。

その後も昭和40年代ころまで,「そんなことをしたらみっともない」という感覚があったと思うのですが,いかがでしょうか。

何か発覚した際にこのような感覚に襲われることから,抑止されてきたことがあると思うのです。

マンション設計,食などの偽装や,公務員の不正や怠慢などが見破られた際の対応を見ていますと,このような感覚はどこに行ってしまったのかと思ってしまいます。

「恥の文化」なんてと読んだ当時は思いました。

しかし,現時点で考えて見ると,何かとても大事な感覚ではなっかたかと思いはじめています。

復活させることが必要ではとも思うのです。

「みっともないから,やめなさい」なんて,なんて消極的の表現かと感じていたようにも記憶があるのですが。

今まさに,この感覚を持つようにすれば抑止できることも数多くあるように感じるのは私だけでしょうか。

このような感覚をそぎ落としてきた原因は何だったのかとも自問してしまいます。

今,どうすれば回復できるかの知恵はでませんが,是非考えて行きたい課題です。

考えてみませんか。

2008-07-01

落書きなどに対しては一寸一言が有効では

一寸言うとキレテ何が起きるか分からない昨今,一寸言う行為も現実離れしているかもしれませんが。

昔だったら「お巡りさんにしかられるよ」と親などから言われたのではないでしょうか。

昭和30年代辺りを子供として過ごした方なら記憶があるのではないでしょうか。

いつ頃から言われなくなったかは定かではありませんが,そのように言われたものです。

言われるタイミングは,思い出すと,その都度,その都度です。

頻度も高く,だれでも言っていたように思います。

自分の親だけでなく,言っていたと記憶があります。

そんなことでも子供にとっては抑止力になっていたと思います。

そのようなことから昨今の状況をみますと,あまりにも見過ごされているように思えてなりません。

今回の落書きのことや,粗大ごみや,産廃の放置などの報道を見ますと,日頃のその場での一言があったのかと思えてなりません。

放置され続けてきたのではと。

2008-06-30

食の偽装の罪の与え方を考えたらいかがでしょう

食の偽装についての報道が毎日行われていますが,少し考えることが必要な時期に来ているのではないでしょうか。

話は昭和30年代辺りにもどりますが,確かに隣の魚屋さんで生のサンマが売れないと,即,開きにして干して販売していたのを子供ながらに見た記憶があります。

ものを大事にしなくてはならない時代で,しかも必ずしも拝金主義ではない時代でした。

お客さんの見えるところで行っていましたから,許されていたのかも知れません。

現代的に言えば,行為が公開されており,納得ずくで購入したことになるのでしょう。

しかし,昨今では隠れた場での,利益が高くなるようにする偽装が大部分です。

やっている方から言えば,昔からやっていると言われているのではないでしょうか。

反対に,やられている方から言わしてもらえば,昔からやっているから悪いと言っているのではなく,現代になっても昔のやり方をぬくぬくと踏襲して,しかも欺いているから怒っているのです。

戦後に販売者自身が作ってきたルールを,変えることもなく,続けていることに,ダメ出ししているのです。

一方,刑罰も明治時代以降,戦後以降かもしれませんが,変えられて来ていないのではないでしょうか。

戦後であれば店が存続するような保護が必要だったのでしょう。

しかし,この現代,偽装をするような会社に対して,そのような保護は必ずしも必要では無い時代になって来ているのではないでしょうか。

そこで提案ですが。

日々報道されている偽装に対する刑罰としては,資本金の10倍または売上の10倍の罰金をかけるのはいかがでしょうか。

欧州などで,地下鉄でキセルが発覚した場合,乗車券の30倍などの罰金が課せられるのと似たような罰則の方法です。

何か新しい刑罰の枠組みも考えることが必要な時期に来ているのではと考えるのですが。

2008-06-26

予算配分をトップダウンで行うことが必要ではないでしょうか

国や地方自治体では予算の原資がないような報道がされています。

与党の方々は特に主張しているのではないでしょうか。

増税ばかりが聞こえてきています。

しかし,そうなのでしょうか。

確かに各ところで確保している予算規模をそのままにして,さらに何かをしようとすれば使えるお金は当然足りなくなるでしょう。

このような議論は現在のような状況においては不毛ではないでしょうか。

低成長時代,高齢化,人口減少など経済状態のあまりよくない状況において,原資をどのように配分しなおして活性化して行くかを考えるのが,今まさに求められていると思うのですが,いかがでしょうか。

それには今までの枠組みを足元から見直す必要があると思います。

つまり,現在までの実績を基本に予算規模を求めるやり方から,例えば,国としてこの5年なり7年なりを見据えて,トップダウンで予算の配分を考えていくやり方なりが必要ではないでしょうか。

どこかの社会主義の国々を描いてるのではありません。

今までの澱を取り除いた状態を作り上げていくためには,新たな予算配分の仕方を考え出すことが必要と考えるからです。

しがらみの予算規模を前提にすれば,原資が不足することことばかりが浮き彫りになるのだと思います。

ここで,実績を踏まえない予算配分をするような抜本的な取り組みが必要な時期だと思うのですが,いかがでしょうか。

2008-06-23

経済観念が欠如してきていることに一因があるのでは

世界中でわが国が高級カバンのお客様になっていることがしばしば報道されています。

確かにデザイン,絵柄などはセンスもよく洗練されたカバンだとは思います。

しかし,その素材をみると価格に見合ったものか,首を傾けるのは私一人でしょうか。

また,最近プラスチックボトルのリサイクルがあまりうまく行っていない報道もあります。

リサイクルするためにはそれなりの処理が必要で,リサイクル材料にするには費用がかかりすぎ,炭酸ガスの抑止にも効果が期待できないとのことから焼却されているように報道されています。

このようなことは,プロセスとそれにかかるコストを考えれば,はじめる前から分かることではないでしょうか。

さらに,犯罪もその後の自分の人生に多大な影響があることを一寸でも考えることがあればと思うです。

これら全てが経済観念の欠如によるものと考えるのはあまりにも単純過ぎるかも知れませんが,経済観念を持ちわせれば何か異なった結果なり,行動なりが期待できるようになるではと思うのですが。

いかがでしょうか。

2008-06-19

年の若い代議士の出現を望むことが多いようですが

若い代議士が代議士に立候補することが多くなってきていますが,課題もあるのではないでしょうか。

確かに新風なり,バイタリティーを送り込むことには貢献していると思います。

しかし,1期から2期,3期と続くうちに就職先確保のための立候補になることはないでしょうか。

ビジネスパーソンとして確立したスキルも無ければ,再就職先としての代議士が設定させることがあるのではないでしょうか。

自分が一度代議士になり,その後他の職場に就職しようとしても,大した実績も積まないうちはお声もかからないのではないでしょうか。

一度就職して,若いうちにコンサルとして独立した場合を想定すれば,かなり実感がつかめるのはないでしょうか。

そこで提案ですが,代議士の連続当選回数を制限するのはいかがでしょうか。

最近地方自治体の長の連続当選回数を3期程度にする動きがありますように,例えば代議士もそのような限度を設けるのです。

制限をしようとのこころは,馴れ合い体質からの脱却が主な目的かもしれませんが,代議士にも当てはめたらいかがなものでしょうか。

就職先として代議士になることには,次にあげるような問題があると思うからです。

(1)一度就職したら継続しようと考えるようになる
(2)収入確保のために続ける必要が生じる
(3)代議士の任期中にできるだけ収入を確保しようとなる
(4)他の就職先にいけなくなると思えば,在任中に収入確保したくなる
(5)立候補のための資金を確保しようとする

勿論若い代議士だけではないと思います。

中年での代議士でも同様なことは想定されます。

しかし,若ければさらにそのような問題に直面するはずです。

ただ若い人材を求めるだけでなく,この辺りも考えながら,制度自身も考えていくことが必要な時期がきていると思うのですが,いかがでしょうか。

2008-06-18

今政府に近い官僚の行動は長年つとめてきた与党にも責任があるのではないでしょうか

官僚ばかりがやりだまにあがっていますが,彼らだけが言及されるのはどうなのでしょうか。

数多く報道されています,あのような行為を見てみぬふりをしてきた与党なりに不正行為を言及して来なかったことに対する不作為の責任があるのではないでしょうか。

どちらかと言えば,与党の意向を汲み取った行為をする内に,あのような行為がまかり通ってきたのではと考えるのは考えすぎでしょうか。

反対に,表面に出ないところでの与党の代議士の行為を目の当たりにしてきた官僚は,ここまでは許される(分かっていても言及されない)と動物的に感じて来たのはないでしょうか。

また与党の代議士はもとをただせば官僚だったのはないでしょうか。

このような場面では,同じ行為をしている官僚に注意することができずに来たのではないかとの仮説は偏ったものでしょうか。

内部を知っているわけではないので,推測の域を脱しないわけですが,構造的にこのように問題が存在するとの仮説は立てられるように思うのです。

以前ににも書きましたが,澱が双方に溜まっているように思えてなりません。

人事権が与党に近いところにあることを考慮しますと構造的にそのようになることも致し方ないことなのかもしれませんが。

いかがでしょうか。