2012-10-28

言われても変えないのはどうしてなのでしょう

首相や、大臣や、元の首相や、元の大臣などが、マスコミ、専門家をはじめ多くの方々からいろいろなことを言われても平然としていままで通り、言動、判断などを行い続けるのはどうしてなのでしょう。

自分の主張は正しく、ぶれていないからだと言われるかもしれません。

しかし、そのように理解できることばかりでしょうか。

時代の流れで価値観なりが変わってきたり、新しい時代を築いて行くためには、自分の考え方なりを見直し、場合によっては変えることが必要なことがあるはずです。

また意見を投げかけあう場合にも、相手の意見を聞き、理解した際には自分の意見を変えることもあるはずです。

勿論その場で変えることはないとしても、それなりの時間を経過した後、変えることがあるでしょう。

このように考えますと、あまりにも変えないことがあるように思えてなりません。

あれだけ叩かれて変えないのは立派だとの捉え方もあるとは思います。

それは叩かれる点と、その理屈がどう考えても理不尽であったり、論理的にもおかしな場合には、確かに考え方を変える必要はないと思います。

しかしながら、首相なり、大臣なりが考え方なり、行為なりを変えないことが目に付かないでしょうか。

2012-10-27

テレビ報道が深まらない理由

テレビの報道は事件発生後日にちがたっても一向に深まらないことを以前に書きました。

この理由を考え仮説をたててみました。

まず、報道の中立性を守るために、踏み込んだ解説なりをするのではなく、できるだけありのままのことだけを報道する。

そして原因などを探る解説をする際にも2、3の原因を専門家と称する方に語らせ、かたよった報道にならないようにしている。

その専門家の解説も一般人が考えたことを逸脱するようなことは避けられている。

などです。

このような仮説を立てると、あまりにも薄っぺらい内容になることが導き出せます。

このような報道がされていないでしょうか。

つまり、見えるところレベルのことばかりが毎日のように報道されるのです。

同じ映像や解説が繰り返し、繰り返し報道されるのです。

深まることは期待できないことになります。

しかし、現在のような混沌としたわが国現状を考えますと、このような報道は存在意義が無くなってきていると感じます。

皆さんはいかがでしょう。

原因は多くの要因に関係したところにあるのではないでしょうか。

素人が考えても関係する要因は7.8個あると思うのです。

深まる議論をする上にも、是非報道のあり方に専門家のご意見を発信していただきたいと思いますが。

いかがでしょう。

2012-10-22

5年で19兆円の復興予算の予算内容について

復興予算の予算内容について、おかしな使い先が毎日のように報道されています。

確かに報道内容を見てみますと、こんなところに復興予算がついているのと、いう予算があります。

あまりにもひど過ぎる予算項目を仕分けするのは重要なことだと思います。

しかしながら仕分けのような手法で適切な予算にできるでしょうか。

国家予算をたてたことはないにしろ、会社なりの予算獲得をした経験から言えば、国家の大臣レベルで見える予算内容で仕分けはできないのではと思われます。

テレビのコメンテーターはそのような発言はされていませんが、数10億円から1000億円レベルの予算内容を読むなどして判断するのは並大抵でないと思います。

つまり、その規模の予算説明は予算の執行内容まで言及されていないことがあると思うからです。

多分、その予算のなかの大きな項目の執行内容を核にして全体を説明したものが書かれていると思われるからです。

この文面を読まれて判断しても、また変な使い道のものが出てくると思います。

つまりこの手法では不具合は見つからないのです。

他の手法も必要と思います。

それは変な予算を企画した者への罰を与える手法を導入することです。

会社であれば、会社方針に合致しない予算をごまかして計上するような者には左遷などをして、そのようなことがないようにするのです。

このようなことまでしない限り、変な予算はなくならないと思います。

いかがでしょう。

100億円などといった一つの予算を執行する際には、1億円レベルの執行項目も紛れ込んでおり、これが曲者だからです。

予算獲得のご経験のある方ならすぐに理解されることだと思います。

ですから仕分けのような手法ではなくならないのです。

是非この辺りのことをコメンテーターの方々から情報発信していただきたいと思うのですが。

いかがでしょうか。

2012-10-08

最近、まさかという仮説を立てています

それは明治維新に遡ってのことです。

仮説は、江戸時代から明治維新になる際に官僚の報酬が異常に高く設定されていたのではというものです。

さらに、そのような報酬制度が現在の官僚の給与に反映されてるのではということです。

理由は、江戸時代から明治維新のときのことを扱っている新書などや、伝記などの書籍を読んでいて感じたからです。

ある本では、一般的な下級武士の給与が現在の価値で200万円程度であったとき、明治維新の時代の海軍の給与が2000万円、つまり10倍であったと書かれています。

また、ある伝記では大名は廃藩置県後の知事に任命され、それなりの給与が支払われ、明治維新の官僚はそれを上回る給与を受けていたとあります。

庶民から考えれば、知事になった大名の給与をこえる金額であったわけですから多額であることが推察できます。

これにはさらに驚くべきことがあるのです。

明治維新の歴史に出てくるような名前の上位の官僚はほとんどが貧しい下級武士の出身なのです。

貧しいとう形容詞は本に書いてある表現で、あたらに加えたことではありません。

このようなことが実態と考えられます。

明治維新はきれいごとのように書かれた書物が多いと感じておりますが、実態は下級武士がお手盛りで大名の処遇以上の給与を得ていたと思うのです。

これを下敷きに考えますと、明治時代からこのかた、官僚の給与は庶民からは分らない程度の金額であったと推察されます。

今後それを支えてきた給与に関する法律を確認することが必要と感じていますが、いかがでしょう。

どなたかこの辺りのことを調べておられる方がいらっしゃったら是非情報発信いただきたいのですが。

いかがでしょうか。

2012-09-16

同じことが起きるのでは

与党、野党の党首選が多く報道されています。

現在の与党は選挙民を大きく裏切ってきたように感じます。

その原因はどこにあったのでしょう。

政治評論かも記者あがりのコメンテーターも語っていただけないところがあり、そこに原因があるのではと思い始めましたので、そこを仮説にして書いてみたいと思います。

仮説は次のとおりです。

1.現在の与党の1代目の首相は、自分が話せば誰かがそれの実現方法を考え、実現するための行動を起こしてくれると考えていたのでは

2.2代目の首相は、細かなことを話せば自分の考えが及んだことが実行されると考えていたのでは

つまり、話せば、官僚なりが自分の考えどおり行動してくれるとの考え方です。

確かに、いろいろな組織で上司の話すことを部下はその実現に智恵を出し、了解をとって行動していると思います。

しかし、現在の政府の有様からはそのような行為があると推察することができません。

結果的に言えば、伝わっていないのと同じような感じです。

ここでさらに原因の仮説です。

1.まさか、このような現在の与党の首相や大臣の行為は、54年間も続いた前の与党の行動を真似ているのではないのか

2.前の与党の時はざっくりとした話なのに、現在の与党の首相は細かすぎるくらい話をしているのではないか

つまり、54年間与党の行為を見てきた方々に、権力を握った際にはあのようにすることが刷り込まれてきたのではということであり、前の与党の方々はざっくりとした指示のもと、官僚の力を頼りに利権誘導型政治を行ってきたのではとの仮説です。

そのような仮説を裏付ける事柄は前の与党時代の多くの大臣の選任にあったと思うのです。

その時は、どうしてあの方があの大臣をできるのとの疑問だけを抱きました。

今考えますと、そのように考えるべきだったのではなく、大臣が考える方ではなく、官僚が考える方だったのはのはないかということです。

このように考えると現在の与党の有様はかなり理解できます。

しかし、このように理解できたとして、どうして現在の与党ではうまく行かないかです。

ここからは会社経験が長い方なら仮説が立てられるのではないでしょうか。

つまり、「与党が選挙によって変わることがない」という暗黙の了解事項です。

これが働いていたのではないでしょうか。

これがあると、ある時大臣なりに示した(話した)ことを、選挙後に問われることがなく、おもいきって行為できてきたのではないでしょうか。

自分の上司相当の方々が変わっても党が変わらないということです。

それは自分の信条を受け入れてもらえる上司が居続けることであり、ある種の安心感があるのだと思うのです。

与党が変わることで受け入れられる信条が異なることがあれば、官僚なりの方々は自己の信条を出すことは禁忌でしょう。

切られることが予測されるからです。

話は進みすぎますが、このように考えると、新に政権が発足しても現在のような有様はつづくのではと考えるのですが。

いかがでしょう。








2012-09-03

121はあやうい数では

衆議院の定数を240名にするとの公約のグループが出てきました。

確かに議員数は多く、経費もばかにならない数字になっています。

昨今のような不景気な時代に、なかなか決まらない議会に業を煮やして経費削減を定員削減に反映したように感じます。

定員を半減すれば、確かに経費も半減するところが多くあると思います。

ですから定性的にはそうだと思います。

しかしながら定量的はどうでしょう。

121名の賛成で国家の多くのことが決まってしまう議会を想定した場合、一寸首をかしげてしまうことはないでしょうか。

国家の決め事を121を多数として決着するのは、あまりにも少ないのではということです。

一人で決める独裁国家は危ないとして、121だから民主的と捉えていいものなのかとの懸念を抱いてしまうのです。

いかがでしょうか。

昨今の選挙制度では半数以上を一党が独占する確立が高いとすると、121だからと言って独裁でないと言えるかです。

どうもこの辺りの議論なくして議員の半数化が、あたかもあるべき姿のような様相を呈してるのはいかがなものでしょう。

多くの方々の発信を期待いたします。






2012-08-24

3.11以降考える 街路時の選定について

街路樹はどの程度考えてられて植えられているのでしょう。

街路樹への要求条件を考えてみたいと思います。

・夏日陰ができ、冬の日差しが入る効用があること
・街の美観を上げられること
・枝を切ったりする世話があまりかからないこと
・水不足が起きないこと
・秋の枯葉の量が多くないこと
などが挙げられるのはのではないでしょうか。

例えば、上のような条件を仮説にして現行の街路樹を考えますと。

冬には葉はなく日差しが入り、夏には葉が茂り日陰ができ、秋の落ち葉は少ないような木が求められることなります。

このような条件で現行の街路樹に選ばれている次のような木々はどうなのでしょう。

ミズキ、プラタナス、イチョウ、サクラ、ケヤキなど

何か当ってないような気がしてなりません。

つまり、街路樹を選ぶ際に、その目的が不明確になってるのではないでしょうか。

保守のし易さや価格などが優先されているのではなどと勘ぐってしまいます。

これだけエコが叫ばれているにですから、夏には電気にたよらず涼しい街にできる街路樹を植樹すべきと考えるのですが。

いかがでしょうか。

2012-08-21

中国で日本の米を増産しているようですが

本日のテレビで、日本と同じ品種の米が増産されているとの報道がありました。

わが国への輸出も考えているようで、報道では安い米が入ってくるとのコメントがありました。

確かに安い米が入ってくるようになると考えられ、現在の日本人の味覚であれば受け入れられると推測されます。

最近の米を食していますと、ご飯としての匂いと味が無いように感じてなりません。

いかがでしょう。

1980年代までは、結構味がする米を食することができた記憶があります。

つまり1980年代以降に生まれた方々は、うまいご飯を食べた経験が少ないとの仮説が成り立ちます。

一方、昭和20時代の以降の給食世代は、子どもの時の昼ごはん(学校給食)はパンでした。
(最近の給食はパンが主体でなく、お米のご飯が出ているそうですが。)

つまり、子ども時のにパンを食べさせられていたのです。

その世代の方々は意識されているでしょうか。

以前にも書きましたが、マヨネーズ分野に新規加入を目論んだメーカーが幼稚園にサンプルを配布したとの報道を聞いたことがあります。

つまり子どもに味を覚えてもらう作戦です。

このようにして開拓しているのです。

これと同じことがパン食にあったのです。

このようなことに今までの元の与党の方々や農協の幹部の方々が学校給食にパンを出してきたことを容認してきたのでは、との仮説が成り立つのではないかと思っております。

表現はよくありませんが、いまさら安い米の輸入を阻止などといったことは、あまりにもふざけているのではないでしょうか。

おいしいお米の味覚を育ててこなかったことを、あらためて意識すべきだと思うのですが。

いかがでしょう。

日本のお米の味を覚えてくれてたら、多くの人たちがその味と安心を求めて価格だけで勝負するようなお米を受け入れないと思うのは私一人でしょうか。










2012-08-12

元の与党の大臣は何をやっていたのでしょう

全て仮説ですが。

現在の「たけしま」の有様を見ていると、その時代の与党の大臣や官僚は何をやっていたのだろうと思うのは私一人でしょうか。

しっかりしたコンクリートの建屋がある姿が報道されていますが、昨日・今日建設されたものでないことは明々白々です。

あたかも現在の与党が対応が甘かったからと発言されている元の与党の方々がいらっしゃいます。

自己否定が無い時代なのからでしょうか。

ここで仮説ですが。

本来責任をとることが必要な『大臣』が何も指示をしてこなかったからではとは、考えられないでしょうか。

元の与党の大臣は指示もしない環境で官僚がやれることだけを行ってきたように思えるのです。

やれることと言っても官僚は、大臣から指示なければ、自分の責任範囲で行動するしかないはずです。

国と国の間の問題の責任は大臣が責任をとることが担保されない限り、相手国からの反撃が予想される対応はできないに決まっていると考えられるのではないでしょうか。

つまり、元の与党の大臣は自分でやって来たように発言されていますが、現実は官僚にまかせっきりだったのではないでしょうか。

まかっせきりとは、官僚がとれる責任範囲のことしかできて来なかったのではないでしょうか。

コンクリートの建屋が造られは次の通りのようです。

1981年 ヘリポート建設
1997年 埠頭建設

この年代の政権は何をしてきたのだろうと考えるのはおかしなことでしょうか。












2012-08-05

参加に加えて国際大会を観ることが必要では

よく調理人を育てるためには、他人の作る良い料理を食べる経験を積ませることも必要のようですが、今回の柔道の結果を見ていると何か外国選手の戦い方なりをよく観ていないのでは感じてしまいます。

一方、国際大会に参加しているから観ているのではと思ってはいますが、意外と観ていないのではないでしょうか。

観察する機会としてです。

今回の大会をTVで観ている限り、その機会は無いように推察されます。

どの位の力で柔道着をつかまれるのかとか、引き付けはどの程度などかは、対戦しなければわからないでしょう。

しかし、戦い方などの戦略は対戦の中だけでなく、観戦でも感じられるはずです。

是非、これからの選手の育成には、問題意識を持たせ、国際大会を観戦させる機会を用意することをしていただきたいと思うのは私一人でしょうか。

また、指導者は「引き締めて」とか「力を出し切って」などといった抽象的で具体的な戦術に展開できない曖昧な言葉ではだめだと感じていただきたいと思うのですが。

いかがでしょうか。

2012-07-30

深く考えることが必要では

現在の与党から離別して新しい政党を立ち上げた方々は何ヶ月間も「消費税を反対する」ということを言われ続け、反対するとしてどうしようと考えているのか、とか来年度予算の計画をどうされたいのか、財源をどこから持ってこられるのか、などと言った言ってきたことをブレークダウンしているように報道がされていません。

言い始めて(消費税反対を)時間が経過すれば、具体策なり、将来の考え方なりに展開されるだろうと考えるのが常識的だと思うような趣旨で以前に書いてきました。

またこの例と同じように、テレビの報道も時間が経過しても同じ映像と最初の報道と同程度の解説を流すことが行われていると書きました。

この風潮は物事を深く考えない姿勢そのものと感じますが。

いかがでしょう。

この風潮を原発事故や、震災の復興に展開しないで欲しいと思います。

原発事故のことであれば、日本は今後どうしていくべきかだけでなく、どうして安全性が欠けた状態で原発が建設・運用され続けてきたのかとの視点からこの60年の与党の政策を検証・評価すとか。

また震災復興のことであれば、例えば原発設置をしていただいた自治体などに分配されたお金がどのように使われ、安全や防御にどの程度つぎ込まれてきたのか。

など多岐にわたった深い考察を展開することが今後のわが国の進むべき方向に重要なことだと思うのです。

時間が経過しても事柄が深まらないことは是非避けるべきと考えるのですが。

いかがでしょうか。


2012-07-23

『いじめ』と言う表現をやめたらどうでしょう

昔は『どろうぼう』と言っていた行為の一つが『万引き』という表現になって、何か軽い罪のような感じはないでしょうか。

一方、「どろぼう」と言われると一寸びくっとするのではないでしょうか。

このように万引きと言う表現と同じようなことが「いじめ」と言う表現にもあると考えられないでしょうか。

犯罪でないような響きがです。

いろいろな報道に接していますと、「いじめ」の内容は、まさに犯罪と言うほかないような事柄です。

セクハラが犯罪であるように、行為している方がいくら遊びだと主張したところで、受けている方が「いじめられている」と感じれば『いじめ』があると考えるべきで、犯罪だと思うのです。

『いじめ』という表現では犯罪のような響きが少ないと感じるのは私一人でしょうか。

そこで提案ですが。

『暴力』または『暴力行為』という表現で「いじめ」を表現するのはいかがでしょう。

いくらか犯罪であることが表わすことができるのではないでしょうか。






2012-07-22

オスプレイの危険率の予測はできるのでは

流れ星や衛星の地上への落下率などが発表できるように、オスプレイの危険率は求められるのではないでしょうか。

コンピュータは部品個々の障害率からシステムの障害率を求めているはずです。

航空工学の専門家であれば、同じような手法をご存知ではないでしょうか。

素人的に単純に考えれば、双発のプロペラ式飛行機とヘリコプターの各障害率の和に、1以下の数字の合体障害指数なりを掛ければ求められるのではと考えてしまいます。

つまり、双発のプロペラ式の飛行を離陸・着陸時にヘリコプター式に変える方式ですから。

危険な場面を考えると次のようになるのではないでしょうか。

まず、離陸時ですが。

ヘリコプター式からにプロペラ式飛行機変えるときにプロペラの周辺に障害が起きた際には、飛行が困難になる

・しかも2つのプロペラからなるヘリコプターですから、一方のプロペラの周辺に障害が起きれば、当然飛行は困難になる

着陸時では

・プロペラ式飛行機からヘリコプター式に変えるときにプロペラの周辺に障害が起きた際には、飛行が困難になる

・しかも2つのプロペラからなるヘリコプターですから、一方のプロペラの周辺に障害が起きれば、当然飛行は困難になる

このような危険があるというのは素人が考えても考え付くことではないでしょうか。

さらに2つのプロペラをヘリコプター式から双発式飛行機に変える時(離陸時)および着陸時、双方のプロペラが同期して(同時に)変更されることが必要です。

このように素人が考えても危険場面がすぐに考えられてしまいます。

どうして専門家はそのように単純に指摘しないのでしょう。

さらに防衛の航空部門を専門の官僚の方々や、大学の専門家の方々はどのように考えておられるのでしょうか。

是非、情報発信していただきたいと思うのですが。

いかがでしょう。

2012-07-16

選挙行動に結びつけられるか

原発に対するデモが継続して開催されています。

水を差すわけではないですが、わが国ではデモで変わったことはないように思います。

安保条約、反戦運動、・・・など戦後の大きなデモで何か変わったことがあったでしょうか。

デモだけで変えることは困難では、というのが実感です。

デモをデモとして拡大して行くとともに、どのようにして選挙行動に結び付けられるようにして行くかが必要ではないでしょうか。

デモへの参加を通じて自己変革していくことも必要でしょう。

原発の件では、この事故が引き起こした放射能放出問題によって、今まで原発容認であった方々に中に、そうでなくなった方々が数多く生まれてきましたように、今回のデモを通して、選挙という形での政治行動に結びつけて行くことが必要だと感じられることではないでしょうか。

かつてフランスデモに参加された方々がどのように選挙行動に反映されてきたのか分かりませんが、デモは活発だったとしても、ただそれだけで変えることは難しいと感じられるのです。

お分かりになっているとは思いますが。




2012-07-14

教育委員会の人材はビジネスパーソンでないのでは

大津での教育委員会の対応を見ていますと、あまりの対応で一寸ビジネスパーソンの集団でないのではとの仮説を抱いてしまっています。

ビジネスパーソンであったら、発言する際、その次の次くらいの発言を想定して発言すると思うのです。

その時だけを考えて発言しているように感じます。

また、昨日の報道では、黙祷もせず、黙祷を求められると座ったままでやろうとしたり、全くビジネスパーソンのリテラシーをお持ちでないと感じます。

教育現場を歩いたご経験の多い方々が教育委員会のメンバーになられているとの話を信じますと、確かに一般的なビジネスパーソンとは異なる特殊な世界のご経験だけを持たれていることと推察いたします。

ビジネスの世界でご経験のあるかたは、企画を行ったり、幹部説明を行ったり、不都合があればお客さまに誤ったり、・・・などなど、多岐にわたった経験を積まれている方々が多いと思います。

経験してきたら、だれでもがビジネスパーソンとしてのリテラシーを保有しているとは思っていませんが、昨今の教育委員会の対応をみていますと、そのように感じてなりません。

いかがでしょう。

いじめの問題をはじめ、教育の現場での問題解決には、多くの経験を積まれたビジネスパーソンのスキルなりリテラシーなりが必要になってきているのではと思うのですが。

2012-07-03

民主党から多くの方々が離別されましたが

50人近い議員の方々が離別されましたが、一寸そのことでお話したくなりました。

確かに主張されている筋論の、公約の多くを実行して来なかったにもかかわらず、増税の決議をしてるのは本末転倒で、やるべき事をやってその後に、とは多くの方々が感じていることだと思います。

そうではありますが、少し違う考えも浮かんできました。

この数ヶ月間、時間と共に深堀化などを行うことなく、ただただ反復ばかりのテレビニュースのように同じ文言での主張を続けていることに疑念を持ち始めました。


多くの方々も、具体策が話されていない、どこにお金があるのか、・・・、など指摘しています。


確かにそのようなことも感じます。


しかし、最近感じているのはそのようなことではないのです。

次のような仮説です。

まさか50人のリーダーは具体策は持たずに、官僚に指示を出せば考えてもらえると考えているのでは言うことです。

そのリーダーは今までの長年与党であった党の幹事長も経験してきており、メインの派閥のドンの側近だったので、首相や大臣のやり方を観て来たはずです。

かれらはアイディアがあったはずもなく、ただ官僚に指示やハッパをかけてきた方々だったのではないでしょうか。

つまり、詳細化や具体化を図る方々は政治家ではなく、取り巻きの官僚だったのではとの仮説です。

このように考えると、時間が過ぎても、話されている内容は深くなることなく、同じ文言が話されることになります。

同胞はどなたも紋切り型の答弁ばかりであることも、そのように考えられる理由です。

いままで、ずっと続けられてきた代議士や、首相、大臣の手法のように思えてならないのです。

このような仮説ではないと主張される方がいると思います。

是非、どうして抽象的で、筋論の同じ文言だけが発信されているのか、どなたか解説していただきたいと思うのですが。

いかがでしょう。




2012-06-05

原発の再稼動をする前に

原発を再稼動する動きが活発化しています。

確かに中小企業の方々に電力を安定的に供給することが必要のようです。

再稼動の要求ではなく、電力の安定供給問題なのです。

安定的な電力供給に原発の稼動が必要であれば、しかるべき手続を踏んでから行うべきと考えますが。

その手続は安全性に加えて、原発の今後の扱い方を明確化することと考えます。

例えば、原発のないわが国を造るのであれば、10年かけて全ての原発を廃炉にすると共に、使用済み核燃料の撤去と安全な保管を行うのです。

このような展望を示しながら、もしもどうしても原発の再開が必要であれば再開するのです。

そうは言っても活断層の真上にあるようなところの原発は再稼動することは適切ではないでしょう。

ですから、そのようなところから原発の仕事に携わっておられる方々の再就職先の確保進めて行くことも同時に開始することが必要でしょう。

場合によっては、この再就職先の確保が一番困難なことかもしれません。

しかし、廃炉にするということは原発が無くなることもさることながら、雇用がなくなることになるのです。

つまり、電力供給の転換と同時に、雇用先の転換も必要となるのです。

このような多面的な事柄を考えながら最も安全な原発である脱原発を進めることが必須と考えるのですが。

いかがでしょう。

2012-05-28

テレビが売れないわけ

量販店の記事を読んでいる、と最近はテレビが売れなくなり、不振とのことが出てきます。

それは確かに、地デジへの変換の時期に買われ、それ以降は需要がなくなってきたからでしょう。

そればかりでしょうか。

最近のテレビ番組に対して、周りにいるシニアクラスの方々に意見を伺うと、つまらない番組ばかりで観る物がないと、と返ってきます。

わが国の人口比がシニアクラスに傾き始めてきている現状を考えると、シニアクラスの方々が観るようなものがないとのテレビに対する意見が出ること自身、一寸腑に落ちないと考えるのは私一人でしょうか。

シニアが増えることはずっと以前から分ってきたことであり、テレビ番組を企画されている方々も承知のことだと思うのです。

それなのに観る物がないと言わせてしまう昨今の有様は考えられません。

このような現状では2台目、3台目のテレビの需要はないように思うのです。

従来のアナログテレビの時代は、各家庭には各部屋部屋に大きさの異なるテレビが鎮座していたと思うのです。

このようなことは現在のような番組では起きないと思うのです。

つまりテレビが売れないと原因の一つにシニアに的を合わせた番組がないからだと思うのです。

テレビの周辺で多くのマーケットリサーチの研究者なりがいると思われることを考えると、どうしてこんなふうになっているのか理解に苦しみます。

いかがでしょう。

テレビが売れないと嘆く前に、番組の現状をよく考えるべきと考えるのですが。

いかがでしょう。

2012-05-15

最近思うこと - 記者とは見識のある方?

テレビのコメンテーターに多くの新聞や放送の記者をご経験の方がいらっしゃいます。

最近、その方々の発言内容に疑問がわいてきました。

あまりのも素人に毛が生えたような内容の発言ばかりです。

確かに事件や政治を見てきたことに関しては素人でない発言です。

しかしながら、問題を突っ込んで考えたような発言はあまり感じられません。

みなさまはいかでしょう。

てなことで、最近はそれなりの題名の本を読んでいるのですが、全てではないにしても、分析がされ、示唆するものがあります。

コメンテーターの発言には示唆するような内容を感じられないのです。

あくまで仮説ですが。

記者の方々は突っ込んだ分析なりの経験が無いのでないでしょうか。

まただれも言っていない、オリジナルで示唆するようなことを発信することも経験が無いのではないでしょうか。

特に政治問題の分野の方々に感じます。

素人でないのですから、例えば、政治で本音が発信されないのは、あの場合ではかくかくしかじかの理由で発信されなかったとか、その場にいて考えなければ理解できなかったことを発信していただきたいのです。

このような発言は皆無だと感じています。

マスコミが記者の経験者をあたかも、そのようなことが可能な人材だと想定しているように思えてなりません。

これも仮説ですが、記者ご経験の方々は、熟考型の方々ではなく、その場で感じたことを分析もなしに伝える伝道者ではないのでしょうか。

マスコミとしてはありのままに伝道してくれているので目的は達成しているとは思います。

しかし、あまりにもことも問題をあぶりだすような分析がされていないと感じてなりません。

いかがでしょうか。

2012-05-04

長く続いた前の与党の時からでしょうに


一寸長くなりますが、山崎元氏の書かれた記事に
(http://diamond.jp/articles/-/16943?page=2)
『防衛大臣に限らないが、大臣に任命され、官庁に大臣として乗り込んでも、省益と切り離された立場で政策を考える独自のスタッフを持っているわけでもないし、幹部クラスの職員を入れ替えることができる独自の人材候補群を持っているわけでもない。
・・・
 ビジネスパーソン読者は、よくおわかりになると思うが、部下よりも情報に劣り、実質的に行使できる人事権を持っていないトップが大組織をマネジメントできるはずがない。自分に近い有能なブレーンを持たず、幹部職員の交代要員を独自に持たずに、形の上で権限だけ持っていても、たった2、3人の幹部で大組織を十分にコントロールすることなどできはしない。』
とありました。

確かにその通りと感じます。

しかし、このようなことは今度の与党に始まったことではなく、長く与党を張っていた前の与党、いや戦後からずっとこのかた、続いてきたことでしょう。

つまり、問題は現在ではなく、以前からの問題であったはずでしょう。

今になって問題であるように指摘しても駄目ではないでしょうか。

今までの与党がこのような構図を造り上げて来たとの仮説を立てる方が妥当ではなでしょうか。

つまり今に始まったのではなく、戦後(いや明治に遡るのかもしれませんが)ずっとこのようなことが行われてきたのでしょう。

このような仮説があっているとしたら、山崎氏の主張は、現在の政治状況を改めるためには思い切った政治体制事態の変革が必要との指摘になっているのではないでしょうか。

現在の与党の問題は、根本的な構造的な問題であり、与党を変えれば解決できる問題ではないのではないでしょうか。

現在の与党である間にあるべき姿を求めべきと考えるのですが。

いかがでようか。