2011-02-20

サウジアラビアから見えたたこと

サウジアラビアの民主化に対する米国の思惑から、戦後のわが国へ米国の対応が見えてきたのではないでしょうか。

米国に都合のよい統治が求められ、わが国の戦後もそれを実行してきたのではないでしょうか。

よく学校給食に粉ミルクが米国から安い価格で提供されてきたことはよく知られています。

これにも米国の思惑を感じるのです。

例えば、学校給食で子供にパンを食べさせてきたことなども、そこに一因があるのではと感じます。

パン食が恒常的に行われることによって米国から小麦粉の輸入が必要となると共に、子供にパン食を植え付けることで、成人になった後にもわが国に小麦が大量に輸出できる環境が作り上げられてきたのではないでしょうか。

マヨネーズに新に参入した企業のマーケット戦略が幼稚園児である子供達にサンプルの製品を食べてもらうことを行ったことからも歴然だと思うのです。

このようなことが米国と、いままで60年近く統治してきた与党が、米国に都合のよい国を作ってきたのではないでしょうか。

この辺りのことは官僚の方々もご存知なのではないでしょうか。

このサウジアラビアの件を評論する中で是非わが国の戦後を総括していただきたいと思うのですが。

いかがでしょう。

2011-02-03

裁判は証明できるかが重要

裁判はあたかも真実があばかれる場のように思われがちだと感じるのですが、いかがでしょう。

昨日の八百長問題が法律がなく、裁かれないようですが、世論は処分をと感じているのではないでしょうか。

こちらは法律がないのに処分が期待され、あちらの代議士の場合は法律に抵触しないから真実との見解です。

何か変だとはお感じにならないでしょうか。

法律にかからないから潔白という主張は、異なる次元のことを同じ土俵の上で言っているように思うのです。

潔白も証明されなければ潔白にならないというのが常識でしょう。

つまり、法律に抵触していないからというのは、どうなのでしょう。

確かに法が罪を規定しているのが法治国家なのでしょう。

しかし、法が駄目なものであれば触れないことが起こるのです。

ここで是非、現在行われている裁判制度を考えていただきたいのです。

たとえ法に触れることが行われたとしても、そのことが証明できなければ、罪にならない(できない)のです。

明らかに行為があったとしてもです。

これば一寸おかしいのではないでしょうか。

今流行の言葉であれば「正義」から考えてです。

八百長問題、代議士の問題を通して、罪とは、裁判とは、と素朴の疑問に自ら問うていただきたいと思います。