裁判はあたかも真実があばかれる場のように思われがちだと感じるのですが、いかがでしょう。
昨日の八百長問題が法律がなく、裁かれないようですが、世論は処分をと感じているのではないでしょうか。
こちらは法律がないのに処分が期待され、あちらの代議士の場合は法律に抵触しないから真実との見解です。
何か変だとはお感じにならないでしょうか。
法律にかからないから潔白という主張は、異なる次元のことを同じ土俵の上で言っているように思うのです。
潔白も証明されなければ潔白にならないというのが常識でしょう。
つまり、法律に抵触していないからというのは、どうなのでしょう。
確かに法が罪を規定しているのが法治国家なのでしょう。
しかし、法が駄目なものであれば触れないことが起こるのです。
ここで是非、現在行われている裁判制度を考えていただきたいのです。
たとえ法に触れることが行われたとしても、そのことが証明できなければ、罪にならない(できない)のです。
明らかに行為があったとしてもです。
これば一寸おかしいのではないでしょうか。
今流行の言葉であれば「正義」から考えてです。
八百長問題、代議士の問題を通して、罪とは、裁判とは、と素朴の疑問に自ら問うていただきたいと思います。