2008-08-30

やめさせることよりも,そのような人はならないことでは

またもや代議士の事務所問題が報道されています。

このようなことが発覚すると,ほとんどの場合マスコミはやめさせることに終始した対応をします。

見ている方は,あきれるやら,いさぎ悪さなりを感じるのではないでしょうか。

やめさせることなのでしょうか。

そうではなく,そのような資質の方はならないことではないでしょうか。

つまり,自分を律することができない方はならないことしかないのではないでしょうか。

飲酒運転が悲惨な事件があれだけ起きても,飲酒運転がなくならいことに似ているのではないでしょうか。

いくら刑罰を重いものにしても,やる人はなくならないことがいい例です。

事務所問題だけではありませんが,この問題一つを取り上げても,問題が起きないようにするような対処ではなくならないのではないでしょうか。

やはり,そのようなことに手を染めない律することができる方がなることだと思いのですが。

いかがでしょうか。

2008-08-26

この結果の起因はダイナミックレンジの大きさでは

どうして日本人はオリンピックにありえないような力が出すようなことがないのでしょう。

このような疑問に,何となく,日本の風土である農耕民族の習性にそのルーツがあると言うような解説が多くあると思います。

そのような解説にいつも行ってしまっていいのでしょうか。

一因には,行動のダイナミックレンジ(動的大小差範囲)は狭いことがあるのではないでしょうか。

欧米人はダイナミックレンジが広く,思い切り大きなパワーと言った時の大きさが,日本人が思い切り大きいと言う時の大きさに比べて,その差が大きなものになっているように思えるのです。

例えば,モダンジャズ酒場で彼らが奇声をあげて聞いている場に遭遇した時,あまりにもの大きさに驚かされたことがありました。

比較になりません。

といっても,同じ場で静かな時には本当に静かに聞き入っているのです。

その差にも驚きました。

このようにダイナミックレンジの大きさが,ここぞと言う時に出てくる結果が,今回のオリンピックの活躍の差と考えるのはあまりにも短絡しすぎでしょうか。

しかし,どこかに起因していると思えてなりません。

2008-08-18

設計するという考え方を育てることが必要では

商品なりに接した際に,これをこうすればもっと使いやすいのに,と思われる人がどの程度いるでしょうか。

全くないということは無いにしろ,多くの方は与えられた機能なりを受け入れているのではないでしょうか。

自ら設計する人に置き換えて考える人は少ないのではないでしょうか。

それは設計する経験がないことから来る習性ではないでしょうか。

設計する経験を持った方なら,設計者は自ら設計した製品を使ってないのではとか,経験が少ない人が設計しているのではと,感じることがあるのではないでしょうか。

つまり設計するという考えがなければ,そのような感覚は生まれないように感じるのですが,いかがでしょうか。

現在の教育には「設計する」というような感覚を育てることが無いのではないでしょうか。

保険制度なり,予算配分の仕方なりを批判するする場合に,制度を設計するような視点なりが発揮されていないのではないでしょうか。

今まさに必要なことは,与えられた枠組みをただ無批判に受け入れることではなく,自ら設計するといったアプローチを実践できることではないでしょうか。

今からでも遅くはないでしょう。

早期に「設計する」との概念を醸成できる教育をすべきと思うのですが。

いかがでしょうか。

2008-08-16

北京の柔道競技の結果から考える

なんと男子柔道の獲得メダルは2個との報道。
驚くばかりの結果です。

内容も完敗でした。

まさにわが国の現状を反映しているように思えてなりません。

ドメスティック競技の一つではないでしょうか。

つまり,ルールは国際で,わが国の行っているスポーツは国内の技で勝負しているように感じるのです。

今回の結果だけではありませんが,この所をよく考えないといけないのではないでしょうか。

ルールが国際的なものであれば,勝負に勝つためにはそのルールに合った戦略が必要なはずです。

しかし,そのような対応が行われていないのではないでしょうか。

男子の結果はそのことを如実に表しているように思えてなりません。

指導者もそのことに気付いていないのではないでしょうか。

もしも報道されているように「一本勝ち」を柔道と考えているのなら,ルールを変えることが先決です。

ルールを今のままで,点数を重ねての柔道は・・・・と言っても始まらないはずです。

一本勝ちでなければ勝負がつかないルールを打ち立てるべきです。

指導者はその役割を果たす必要があります。

例えば,レスリングのように,上半身と立ち技だけのスタイルと,下半身も入れた立ち技だけのスタイルやフリーのスタイルなどをルールに設ける方法です。

そして,国内では一本勝ちで勝負がつくルールとフリーのルールだけで競技を行い,国際的は他のルールも許容して行くのです。

このような抜本的な対処が必要な時期に来ているのではないでしょうか。

JUDOUが国際的な競技であれが,柔道を国内的な競技にして伝統を残すべきです。

柔道は相撲のような形態で残すのです。

しかし,JUDOUを行う場合には複数のルールからなるスタイルをわが国から提案して柔道本来の面白さも残せるようにして行くべきと考えますが。

いかがでしょうか。

2008-08-13

役割と責任を明確にした枠組みの再構築を

汚職,税金の無駄使い,偽装など問題が噴出している昨今,政策や法律などを策定している官僚,大臣などの責任に相当することに言及する機会が増えてきています。

いまこそ,担当責任者とその長の役割と責任を明確にした枠組みを構築し直す時期ではないでしょうか。

この部分を曖昧にしたまま物事を判断していても,間違わない判断は期待できないのではないでしょうか。

報酬の問題もからんでくると思います。

偉い地位にあるから報酬が高くあるのではなく,責任が重く,責任をとるリスクがあるから高いと考える,考え方があります。

しかし,今問題になっていることに関しては,多くの場合,係っている担当責任者とその長の役割と責任が不明確になっていることから,曖昧な対処で事がすまされているのではないでしょうか。

どこまでを誰が判断・決定して,責任はどこまでの範囲かを明確にした決定機構を持たない限り,いつまでも問題を先延ばししているような状況を招くのではないかと思うのですが。

最近の社会保険庁の問題などを見ていますと,長の責任があまりにも問われなすぎではないでしょうか。

いままで役割と責任が不明確なまま来たのではあれば,この時点でそれらを明確にした枠組みの構築が必須と思うのですが。

いかがでしょうか。

2008-08-11

言い続けることが必要では

最近は「恥ずかしいことだよ」とか「悪いことをするとお巡りさんに怒られるよ」てなことは聞かなくなったし,口に出すことがなくなったのではないでしょうか。

そう思うと,自分でも子供に対して言わなかったなと実感するのです。

確かに自分の親世代は言っていました。

一寸したことに必ずと言っていいほど言われたものでした。

自分の親だけでなく,近所の親世代の人たちは子供に言っていました。

聞いて育ったわれわれ世代はどうかと言えば,言ってこなかったのではないでしょうか。

自分の場合で考えると,なにか白々しくて「恥ずかしいことだよ」とか「悪いことをすると・・・」とは言えなかったように思います。

言われて来たときも,何か白々しかったようにも記憶があります。

しかし,このような言葉を聞かなくなった世代は,今後言わないでしょうし,吉本隆明ではありませんが,共同幻想のような共通した幻想を持ち合わせない世代が生まれてきたのではないでしょうか。

このことが,いろいろな事柄を抑制する幻想を造り上げることがなくなってることの一因と考えるのは短絡しすぎでしょうか。

さらに言えば,これらの言葉はかなり頻度高く言われていた記憶があります。

何か気付くことがあれば,親世代の人々は,その都度すぐに口にしていたのです。

現在のような状況を考えますと,何か目にしたら即その場で口にできるような社会を取り戻すことが必要な時期に来ているのではないでしょうか。

現代,これからの時代にあった言い方を新たに造り上げながらかもしれませんが。

2008-08-08

大臣の役割は何なのでしょうか

国家公務員の問題ばかりが報道されていますが,それを助長してきたのは政治ではないでしょうか。

政治と言ってしまうと誰の責任なのか分からなくなってしまうのですが。

政治家なり,大臣なりでしょうか。

国家公務員,特に高位の官僚の人事は政治がからみ,その長は大臣なりであったはずです。

また口を挟むところとしては,与党の代議士でしょう。

つまり,政治が牛耳っていると考えるのが妥当でしょう。

いかにも官僚だけが槍玉にあがっていますが,本当にそこだけが問題なのでしょうか。

どちらかと言えば,政治の方に問題があったのではないでしょうか。

いろいろな問題を放置したり,利益を優先して判断したり,政治に問題があったツケが今顕在化して来ているのではないでしょうか。

このように考えると,大臣の役割とは何なのかと考えさせられてしまいます。

何かはっきりしていないのではないでしょうか。

実務は官僚が検討し,実践しているわけですから,大臣は何をする人なのでしょうか。

いままさに,この役割を明確にして,その役割に応えられる人材を発掘することだと思うのですが,いかがでしょうか。

2008-08-04

何故高層ビルでなければならなかったのでしょうか

米国の都市部では高層ビルがありますが,地方では意外と平屋があるのには驚かされたことがあります。

あのように広い国でありながら,何故高層ビルが立ち並んでいるのでしょう。なにか首を傾けてしまうのですが。

広いから平屋でとは短絡的かもしれませんが,どうしても理解ができないのです。

最近では,モンゴルの首都や,アジア,中東の国々でも高層ビルが建てられています。

なにか勘違いされては,いないでしょうか。

確かに平屋よりも高層ビルは建築技術的言えば高度の技術だとは推察します。

だからと言って,平面が広く,人口の密集もそれほどでないところに高層ビルはないのではないでしょうか。

高層ビルがあると何か先進国になるような錯覚は醸成されていないでしょうか。

最近の話題で言えば,高層ビルはエコとでも言うのでしょうか。

そうとも思えません。

ここで高層ビルが地球規模で,本当に必要なのか考える時期に来ているのではないでしょうか。

最近,どちらかと言えば,歩けて生活ができ,平屋の建物で造られた都市の出現を期待しています。

いかがでしょうか。