2015-01-26

討論のありかたについて

「討論」というと、意見を闘わせることを意味しますが、このような時代を卒業したら、というのが今日の話です。

このところのいろいろな事件を見聞きしているうちに感じたことがあるのです。

それはあまりにも意見のぶつかり合いが多いということです。

内容ばかりか、姿勢も戦っているのです。

討論というと、意見を出し合って行くことを前提にしているようです。

それでいいのでしょうか?
そうではないのではないでしょうか。

話し合い、言い合いなりをする意義を次のようなところに置いたらいかがでしょう。

新しいい意見を創り上げることするのです。

つまり意見を出し合うところは、自分は現在このように考えているとの表明する場とするのです。

そして、出された意見を、自分の意見とどこが違うのか、自分の意見に何が足りないのかを気づくようにするのです。

気づくまで質問なりをすることも重要だと思います。

そうなったら、ある時点から自分の意見を変えてみるのです。

その時の姿勢は、新しい自分の意見を創っていくことにするのです。

つまり多くの意見を戦わせて、その結果、だれも考えていなかった、思いもよらない意見を導き出すのです!!

価値観のぶつかり合いではなく、新しい価値観を創って行くのです。

いかがでしょうか?

国と国、民族と民族、宗教と宗教などの世界にもそのような場を作れれば何か変われるのではと思っています。