官僚の行為が問われてる時代だと思います。
国民のための行為ではなく、何か他の人々のために行ってような感じを抱きますが、いかがでしょう。
今まで気付かずにきたことがあります。
法律は明治時代から継続しているものがあります。
明治時代に創設された官僚の多くが江戸幕府の官僚だったことです。
「米欧回覧実記」でもその辺りのことを知ることができます。
江戸幕府からの官僚は、殿様のために何事も行ってきた経験を豊富に持ってきた、反対に言えば民衆のための経験は微々たるものではと仮説を立てるのが妥当ではないでしょうか。
このように考えると個々の官僚の行為を問うよりも、現在まで継続されている法律の中に、そのような傾向があるのではと検討することが必要ではないでしょうか。
この辺りのことを問うている歴史学者がいらっしゃるようでしたら是非情報発信していただきたいと思うのですが。
いかがでしょう。
法律にのとって行為しているから云々の発言をよく聞きますが、このような認識が曲者ではないでしょうか。
法律自身が国民のためになるように、なっていなければ官僚の行為は国民のための行為になっていないと考えるのが妥当ではないでしょうか。
明治時代の官僚制度の発足を考えると何か現在の有様が理解できるのではないでしょうか。
2010-12-19
2010-12-15
日本家屋は何故日本の建築形式を捨て去ったのでしょう
日本各地の一般住宅をテレビなどの映像で見るとどこも同じような形式の家が建てれていることが分ります。
2階建てで、外壁はモルタルなどの様式です。
一方、日本の庭園などの建築形式は1階建てで、シック壁になっているものが多く存続しています。
どうしてこのような古来からある建築形式が捨て去られてきたのでしょう。
このような形式の建築は裕福な方々が建てられてきたものだからなのでしょうか。
しかし、この形式の建物には現在現在の一般住宅にはないものを感じます。
いかがでしょう。
どうしてこのような日本の建築形式の建て方で一般住宅を建ててこなかったのでしょう。
素朴な疑問がわいて来ます。
明治時代、戦後と2回にわたってわが国に築かれてきた建築形式が捨て去られ、他の国の形式に似た形式が導入されてきたからではないでしょうか。
その原因の一つには、日本の建築形式を学問にしてこなかったことを仮設にすることはできないでしょうか。
外国の建築は学問として学べるようになっているにもかかわらず、わが国の建築形式は学べるように体系化してないからではと思ってしまいます。
ただ学問にしてこなかったことがそうさせて来たのではと感じられてしかたがありません。
是非この辺りに関して建築家の皆さんから発信していただきたいと思うのですが。
いかがでしょうか。
2階建てで、外壁はモルタルなどの様式です。
一方、日本の庭園などの建築形式は1階建てで、シック壁になっているものが多く存続しています。
どうしてこのような古来からある建築形式が捨て去られてきたのでしょう。
このような形式の建築は裕福な方々が建てられてきたものだからなのでしょうか。
しかし、この形式の建物には現在現在の一般住宅にはないものを感じます。
いかがでしょう。
どうしてこのような日本の建築形式の建て方で一般住宅を建ててこなかったのでしょう。
素朴な疑問がわいて来ます。
明治時代、戦後と2回にわたってわが国に築かれてきた建築形式が捨て去られ、他の国の形式に似た形式が導入されてきたからではないでしょうか。
その原因の一つには、日本の建築形式を学問にしてこなかったことを仮設にすることはできないでしょうか。
外国の建築は学問として学べるようになっているにもかかわらず、わが国の建築形式は学べるように体系化してないからではと思ってしまいます。
ただ学問にしてこなかったことがそうさせて来たのではと感じられてしかたがありません。
是非この辺りに関して建築家の皆さんから発信していただきたいと思うのですが。
いかがでしょうか。
2010-12-06
市長と市議会がもめているところがありますが
市長解任の住民投票の結果が報道されていますが。
このケースや、名古屋市のケースでは市長の強引さが指摘されています。
確かに、一般的な民主的という言葉いわれていることから見てみますと、一寸手法にという感想を持たれる方々が多いのではないでしょうか。
この民主的というのが曲者ではないでしょうか。
国会議員の報酬、定数や区割りの件など、議会にかけ審議する所謂民主的という手続きではなかなか国民の意見を反映することが困難であることは見てのとおりです。
このようなことは当然地方自治体の議会周辺にもあり、現在報道されているようなことになっているのだと思います。
まさにこの民主的という手法に疑問が投げかけられているのだと思うのですが。
いかがでしょうか。
当事者の利害にからむことを、まさにその当事者が民主的な手法を使って否定するなどと言うことはできないことを物語っているのだと思うのですが。
当事者が当事者の意思で否定するなんて、昔のどこかの国のスローガンであった『自己否定』でも標榜しなくてはできないことなのでしょう。
このように当事者自身が当事者の処遇を変えるには、どのような手法が有効なのか考える時期に来ているのではないでしょうか。
ここでもその方法を考え、提案できればと思っています。
このケースや、名古屋市のケースでは市長の強引さが指摘されています。
確かに、一般的な民主的という言葉いわれていることから見てみますと、一寸手法にという感想を持たれる方々が多いのではないでしょうか。
この民主的というのが曲者ではないでしょうか。
国会議員の報酬、定数や区割りの件など、議会にかけ審議する所謂民主的という手続きではなかなか国民の意見を反映することが困難であることは見てのとおりです。
このようなことは当然地方自治体の議会周辺にもあり、現在報道されているようなことになっているのだと思います。
まさにこの民主的という手法に疑問が投げかけられているのだと思うのですが。
いかがでしょうか。
当事者の利害にからむことを、まさにその当事者が民主的な手法を使って否定するなどと言うことはできないことを物語っているのだと思うのですが。
当事者が当事者の意思で否定するなんて、昔のどこかの国のスローガンであった『自己否定』でも標榜しなくてはできないことなのでしょう。
このように当事者自身が当事者の処遇を変えるには、どのような手法が有効なのか考える時期に来ているのではないでしょうか。
ここでもその方法を考え、提案できればと思っています。
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