2008-07-21

裁判でない枠組みが必要ではないでしょうか

若年者による殺人事件,教育界の偽装,食の偽装などの真実を求める場として裁判ではない場が必要ではないでしょうか。

裁判は真実を暴くことのできる場ではないと思います。

犯罪の客観的な証拠を元に,モデル化された犯罪の要件に照らし合わせて,刑を決定する場だと思うのです。

ここでは真の原因を追求して,是正するところまで行う枠組みはありません。

今必要としているのは刑を科すことだけでなく,是正できるようにするための原因を見つけだすことだと思うのです。

刑を科すだけでは抑止することはできません。

抑止するようにするためには,どのような理由なり,条件なりで事件が起こされたのかを,当事者の心理状態まで入り込んだ原因究明が必要ではないでしょうか。

自白が証拠にならない現行の裁判の枠組み中では,当事者に入り込んだ形での原因は明らかに成るはずがありません。

裁判では駄目であるのなら,他の枠組みで,現代の不正を根本から正すための枠組みが必要と思うのですが,いかがでようか。

2008-07-14

コスト観念の教育が必要では

コストは作ったときだけでなく,その後も結構かかるものです。

例えば社会保険庁のお金で施設を造った時の金額が浪費と言われていますが,それだけなのでしょうか。

一度施設を造ると,照明や冷暖房のための電気代や,床などの掃除代や,設備の維持やサービスをする人件費,設備の修繕費など,建設後にかかる費用もあり,ばかにならない金額なのです。

このように何か作れば必ず,作るときおよび作った後に必ずコストがかかるのです。

このこと,つまり作った後にもコストが発生して,しかもばかにならない程の金額になることの知識があることも重要なことなのです。

つまり,無駄はそこまであるのです。

報道されている金額は,ここでいう作ったときの金額なのです。

ですから,金額が報道されたら,それはどこまで入れて計算された金額なのかが判断できる知識が必要なのです。

さらに言えば,作られたものがコストに見合った価値を持ったものであるかも,判断できることが必要となるのです。

ところでこのようなことが教えられて来ているのでしょうか。

今まさに学者指向の教育ではなく,自ら判断できる知恵を育てる教育が必要ではないでしょうか。

2008-07-11

芸能人の報道も影響しているのでは

また芸能人の不倫報道が大きく報道されています。

世の中の道徳観なり,倫理観を危うくしている一因の一つにあげられないでしょうか。

もっとも同時に報道されている大分県の教育分野の汚職なども大なり小なり危うくしているとは思いますが。

偽装問題も,高級官僚の厚遇なども一因でしょう。

何故かと言えば,昭和30年代はあまりこのような問題に踏み込んだ報道が無かったとの記憶があるからです。

知らされていなかったのです。

勿論知らされていなかったことは問題ですが,内部まで覗き見るようなことは不可能だったのです。一般庶民は。

ここで一気に暴かれてきたのです。

食の偽装の時の発言ではありませんが,「以前から行われてきたこと」「どこでもやっている」とかの発言がその証拠です。

これらを見せつけられてきた庶民感覚には「えー!偉い人もやってるじゃん」という感覚ではないでしょうか。偉い人ではありませんが。

俗に道徳的でないことも,倫理的でないこともやっており,しかも,しかられることもなく笑いながら受け入れられているのです。

以前(昭和30年代)であれば,ありえない光景です。恥ずかしいという感覚があったと思うのです。

恥ずかしがることもなく,辞めさせられることもなく,芸能分野も,官僚分野でも,いけシャーシャーと居ることができる姿を見せられ続けているのです。

いつのまにかそれらは,恥ずかしいことではないように刷り込められてしまっていると考える仮説は立てられないものでしょうか。

今一度,芸能人の報道のあり方と,対処の仕方を見直していただきたいと思うのは私一人でしょうか。

2008-07-08

裁判の判決になんとなく疑問が

強盗殺人で無期が求刑された事件で,強盗と認められる証拠が不十分なことから,殺人事件と看做して18年の刑期が言い渡されたとの報道がありました。

裁判は証拠にもとづくものであり,証拠がなければ罪を犯したとして裁くことはできないことは分かっているつもりです。

しかし,強盗であろうが,なかろうが人,一人の命を奪っているのです。

何か違いがあるのでしょうか。

つまり,殺人と強盗殺人で差があるということに疑義を感じざると得ないのです。

確かに現在の刑法は,予め定められた刑期が明らかにされていなければならない罪刑法定主義を採っているわけですから,殺人と強盗殺人は類似の要件の犯罪ではありますが,異なる犯罪なのでしょう。

しかし,ともに人の命を奪った犯罪です。

人の命は尊大で,大切と言われ,そのとおりだと思えば思うほど,判決ってなんなんだろうと思うのは私だけでしょうか。

今の裁判制度は以前にも書きましたが,犯罪のモデルに当てはめて,その刑期を言い渡すものと考えますと,モデルがへなちょこりんということにはならないでしょうか。

命を奪ったたらそれなりの刑期が言い渡されるべきではないでしょうか。

18年などというのは言語道断です。

人の命を奪ったのなら,それに同等の刑期にすべきと考えますが,いかがでしょうか。

被害者の権利よりも,加害者の権利が厚く守られているような刑法は,見直されることが必要ではないでしょうか。

2008-07-03

高層のビルディングは米国のコピーでは

高層のビルをわが国でも競って建設しています。

中国でも。ドバイでも。

しかし,欧州の国々で高層のビルは特定の地域にはあるとは思いますが,中心地に数多く存在しないのではないでしょうか。

最近のBSハイビジョンの番組をご覧になっていらっしゃる方がならば,お気づきではないでしょうか。

江戸から明治の時代には欧州の真似をしてきたわが国の建築は,戦後米国をお手本にしていることからなのでしょう。

明治の時代には,下級武士出身の建築家が日本の建築方式を体系化することなく,建築物に欧州の技術を導入して修復してきたのは,唐招提寺の例でも明らかです。

戦後は,それに加えて米国の真似をしているように感じるのですが。

真似をしているのはしょうがないとして,日本の建築様式が体系化されておらず,さらに発展されていないことに疑義を感じるこのごろです。

前橋市に行くと地上127mの群馬県庁がぽつんと立っています。

何でこの地域に高層ビルを立てることが必要だったのだろうと,本当に首を傾けてしまいます。

まさか横浜市の新しい市庁舎も高層ビルを考えているのではとも心配してしまいます。

高層ではない日本の建築の優位さをもっと主張した建築なり,地域開発なりを推し進めて行くことが必要な時期に来ているのではないでしょうか。

2008-07-02

恥ずかしい気持ちの回復が必要では

ベネディクトの「菊と刀」で日本の恥の文化が紹介されたのは1948年ですから,今から62年前です。

その後も昭和40年代ころまで,「そんなことをしたらみっともない」という感覚があったと思うのですが,いかがでしょうか。

何か発覚した際にこのような感覚に襲われることから,抑止されてきたことがあると思うのです。

マンション設計,食などの偽装や,公務員の不正や怠慢などが見破られた際の対応を見ていますと,このような感覚はどこに行ってしまったのかと思ってしまいます。

「恥の文化」なんてと読んだ当時は思いました。

しかし,現時点で考えて見ると,何かとても大事な感覚ではなっかたかと思いはじめています。

復活させることが必要ではとも思うのです。

「みっともないから,やめなさい」なんて,なんて消極的の表現かと感じていたようにも記憶があるのですが。

今まさに,この感覚を持つようにすれば抑止できることも数多くあるように感じるのは私だけでしょうか。

このような感覚をそぎ落としてきた原因は何だったのかとも自問してしまいます。

今,どうすれば回復できるかの知恵はでませんが,是非考えて行きたい課題です。

考えてみませんか。

2008-07-01

落書きなどに対しては一寸一言が有効では

一寸言うとキレテ何が起きるか分からない昨今,一寸言う行為も現実離れしているかもしれませんが。

昔だったら「お巡りさんにしかられるよ」と親などから言われたのではないでしょうか。

昭和30年代辺りを子供として過ごした方なら記憶があるのではないでしょうか。

いつ頃から言われなくなったかは定かではありませんが,そのように言われたものです。

言われるタイミングは,思い出すと,その都度,その都度です。

頻度も高く,だれでも言っていたように思います。

自分の親だけでなく,言っていたと記憶があります。

そんなことでも子供にとっては抑止力になっていたと思います。

そのようなことから昨今の状況をみますと,あまりにも見過ごされているように思えてなりません。

今回の落書きのことや,粗大ごみや,産廃の放置などの報道を見ますと,日頃のその場での一言があったのかと思えてなりません。

放置され続けてきたのではと。