2008-06-30

食の偽装の罪の与え方を考えたらいかがでしょう

食の偽装についての報道が毎日行われていますが,少し考えることが必要な時期に来ているのではないでしょうか。

話は昭和30年代辺りにもどりますが,確かに隣の魚屋さんで生のサンマが売れないと,即,開きにして干して販売していたのを子供ながらに見た記憶があります。

ものを大事にしなくてはならない時代で,しかも必ずしも拝金主義ではない時代でした。

お客さんの見えるところで行っていましたから,許されていたのかも知れません。

現代的に言えば,行為が公開されており,納得ずくで購入したことになるのでしょう。

しかし,昨今では隠れた場での,利益が高くなるようにする偽装が大部分です。

やっている方から言えば,昔からやっていると言われているのではないでしょうか。

反対に,やられている方から言わしてもらえば,昔からやっているから悪いと言っているのではなく,現代になっても昔のやり方をぬくぬくと踏襲して,しかも欺いているから怒っているのです。

戦後に販売者自身が作ってきたルールを,変えることもなく,続けていることに,ダメ出ししているのです。

一方,刑罰も明治時代以降,戦後以降かもしれませんが,変えられて来ていないのではないでしょうか。

戦後であれば店が存続するような保護が必要だったのでしょう。

しかし,この現代,偽装をするような会社に対して,そのような保護は必ずしも必要では無い時代になって来ているのではないでしょうか。

そこで提案ですが。

日々報道されている偽装に対する刑罰としては,資本金の10倍または売上の10倍の罰金をかけるのはいかがでしょうか。

欧州などで,地下鉄でキセルが発覚した場合,乗車券の30倍などの罰金が課せられるのと似たような罰則の方法です。

何か新しい刑罰の枠組みも考えることが必要な時期に来ているのではと考えるのですが。

2008-06-26

予算配分をトップダウンで行うことが必要ではないでしょうか

国や地方自治体では予算の原資がないような報道がされています。

与党の方々は特に主張しているのではないでしょうか。

増税ばかりが聞こえてきています。

しかし,そうなのでしょうか。

確かに各ところで確保している予算規模をそのままにして,さらに何かをしようとすれば使えるお金は当然足りなくなるでしょう。

このような議論は現在のような状況においては不毛ではないでしょうか。

低成長時代,高齢化,人口減少など経済状態のあまりよくない状況において,原資をどのように配分しなおして活性化して行くかを考えるのが,今まさに求められていると思うのですが,いかがでしょうか。

それには今までの枠組みを足元から見直す必要があると思います。

つまり,現在までの実績を基本に予算規模を求めるやり方から,例えば,国としてこの5年なり7年なりを見据えて,トップダウンで予算の配分を考えていくやり方なりが必要ではないでしょうか。

どこかの社会主義の国々を描いてるのではありません。

今までの澱を取り除いた状態を作り上げていくためには,新たな予算配分の仕方を考え出すことが必要と考えるからです。

しがらみの予算規模を前提にすれば,原資が不足することことばかりが浮き彫りになるのだと思います。

ここで,実績を踏まえない予算配分をするような抜本的な取り組みが必要な時期だと思うのですが,いかがでしょうか。

2008-06-23

経済観念が欠如してきていることに一因があるのでは

世界中でわが国が高級カバンのお客様になっていることがしばしば報道されています。

確かにデザイン,絵柄などはセンスもよく洗練されたカバンだとは思います。

しかし,その素材をみると価格に見合ったものか,首を傾けるのは私一人でしょうか。

また,最近プラスチックボトルのリサイクルがあまりうまく行っていない報道もあります。

リサイクルするためにはそれなりの処理が必要で,リサイクル材料にするには費用がかかりすぎ,炭酸ガスの抑止にも効果が期待できないとのことから焼却されているように報道されています。

このようなことは,プロセスとそれにかかるコストを考えれば,はじめる前から分かることではないでしょうか。

さらに,犯罪もその後の自分の人生に多大な影響があることを一寸でも考えることがあればと思うです。

これら全てが経済観念の欠如によるものと考えるのはあまりにも単純過ぎるかも知れませんが,経済観念を持ちわせれば何か異なった結果なり,行動なりが期待できるようになるではと思うのですが。

いかがでしょうか。

2008-06-19

年の若い代議士の出現を望むことが多いようですが

若い代議士が代議士に立候補することが多くなってきていますが,課題もあるのではないでしょうか。

確かに新風なり,バイタリティーを送り込むことには貢献していると思います。

しかし,1期から2期,3期と続くうちに就職先確保のための立候補になることはないでしょうか。

ビジネスパーソンとして確立したスキルも無ければ,再就職先としての代議士が設定させることがあるのではないでしょうか。

自分が一度代議士になり,その後他の職場に就職しようとしても,大した実績も積まないうちはお声もかからないのではないでしょうか。

一度就職して,若いうちにコンサルとして独立した場合を想定すれば,かなり実感がつかめるのはないでしょうか。

そこで提案ですが,代議士の連続当選回数を制限するのはいかがでしょうか。

最近地方自治体の長の連続当選回数を3期程度にする動きがありますように,例えば代議士もそのような限度を設けるのです。

制限をしようとのこころは,馴れ合い体質からの脱却が主な目的かもしれませんが,代議士にも当てはめたらいかがなものでしょうか。

就職先として代議士になることには,次にあげるような問題があると思うからです。

(1)一度就職したら継続しようと考えるようになる
(2)収入確保のために続ける必要が生じる
(3)代議士の任期中にできるだけ収入を確保しようとなる
(4)他の就職先にいけなくなると思えば,在任中に収入確保したくなる
(5)立候補のための資金を確保しようとする

勿論若い代議士だけではないと思います。

中年での代議士でも同様なことは想定されます。

しかし,若ければさらにそのような問題に直面するはずです。

ただ若い人材を求めるだけでなく,この辺りも考えながら,制度自身も考えていくことが必要な時期がきていると思うのですが,いかがでしょうか。

2008-06-18

今政府に近い官僚の行動は長年つとめてきた与党にも責任があるのではないでしょうか

官僚ばかりがやりだまにあがっていますが,彼らだけが言及されるのはどうなのでしょうか。

数多く報道されています,あのような行為を見てみぬふりをしてきた与党なりに不正行為を言及して来なかったことに対する不作為の責任があるのではないでしょうか。

どちらかと言えば,与党の意向を汲み取った行為をする内に,あのような行為がまかり通ってきたのではと考えるのは考えすぎでしょうか。

反対に,表面に出ないところでの与党の代議士の行為を目の当たりにしてきた官僚は,ここまでは許される(分かっていても言及されない)と動物的に感じて来たのはないでしょうか。

また与党の代議士はもとをただせば官僚だったのはないでしょうか。

このような場面では,同じ行為をしている官僚に注意することができずに来たのではないかとの仮説は偏ったものでしょうか。

内部を知っているわけではないので,推測の域を脱しないわけですが,構造的にこのように問題が存在するとの仮説は立てられるように思うのです。

以前ににも書きましたが,澱が双方に溜まっているように思えてなりません。

人事権が与党に近いところにあることを考慮しますと構造的にそのようになることも致し方ないことなのかもしれませんが。

いかがでしょうか。

2008-06-16

官僚出身の代議士への立候補をご遠慮願ったらと思うのですが

本日の鈴木貴博氏の記事に次のようなことが書かれていました。

「世の中のどんな事象にも、もっともらしい説明を付けることが可能だという事実である。(中略) 
損失の責任がどんなに自分にあったとしても、その責任を顔も知らない別の部署の人間に負わせるロジックを作り上げるなど、能力者にとってはお手のものだ。
だから彼らの言う「私に責任はありませんよ」という話には、大体において嘘があると思ったほうがいい。」

社会保険庁問題などを統括している大臣のまわりでも,このようなことが起きてはいないでしょうか。

最近感じていることに,鈴木貴博氏が指摘している「もっともらしい説明を付けることが可能」ということです。

いろいろな事柄に対して,政党に所属している代議士の話を聞いていると,もっともらしい論理が展開されます。

それも全く反対のことか,政策を支援するような説明です。

説明はその根本まで入り込んでの説明はあまり耳にしません。

取ってつけたような説明が多いのではないでしょうか。

そのような説明をしている代議士の履歴をみますと,多くの方が官僚出身です。

そのような環境のなかで自分で考えるよりも,どのような説明も展開できる周りの意見の説明を聞いて喋れば,自分と同じ論理でありますから楽なはずです。

だからとは言いませんが,いつのまにかとってつけたような論理で説明するような状況が造られてはいないでしょうか。

官僚出身の代議士は官僚と同じ論理を展開できる人材であり,場合によっては官僚そのものであることのあるように思えるのですが。

いかがでしょうか。

2008-06-12

居酒屋タクシーの件で追加したいことがあります

参議院議員の藤末健三氏の
「居酒屋タクシーの裏側」との記事に
「私の経験ですと役所の残業の原因は大きく三つあります。」として
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080610/153060/

・法案の作成
・予算案の作成
・国会質問待機
があがっています。

外部から見ていまして,確かに残業の原因はそうだと同感します。

国会質問待機は役所だけでなく,企業でも国会で関連質問があると待機しています。

このことが居酒屋タクシーの真の問題なのでしょうか。

マスコミの方々も真の理由を取材して欲しいと思います。

今回の件の一因であるかは分かりませんが,以前のことで,このようなことがありました。

企業から官僚の方に渡されたタクシー券が,利用者が降りる時に記載が求められている利用金額の欄に金額を記入することなく,運転手さんに渡されたことが多発したことがありました。

結果はどのようになるかはすぐにでもお分かりになると思います。

後日タクシー利用券を発行した企業に請求書がきます。

その請求書には,当然年月日,時間,利用料金が記載されています。

利用料金はタクシー会社(今回のように個人タクシーであれば運転手さんでしょうが)の方で記入しているのです。

記入された利用料金と運転手さんが個人会社としての報告書なりの金額の突合が行われているのかどうかはよく知りませんが,当然のことながら利用料金が記入されて請求されるのです。

そしてこの金額がべらぼうになっているケースがあり,会社通達で官僚の方にタクシー券を渡す時には,どこから乗って,どこで降りたかを記入してもらうようにとあった記憶があります。

当然利用料金もタクシー会社ではなく,利用された方に書いていただくように口添えするようにとの通達でした。

今回はこのようなことは無かったのかなというのが率直な感想です。

この辺りも取材していただきたいものと思うのですが,いかがでしょうか。

2008-06-11

派遣法の見直しが必要では

派遣社員という表現はまやかしではないでしょうか。

労働者を斡旋する会社が潤っている現状は問題ではないでしょうか。

ある意味,働いている方々の労働対価の一部を合法的にピンはねしていると考えられるからです。

流動的な労働環境を造るという文言には,なるほどと考えられるふしはありますが,流動的な労働環境の整備の最初にやらなくはならないことは,このような法律を整備することではないのではないでしょうか。

何からやったらいいのかは今すぐに思いつきませんが,少し早すぎるように感じますが,いかがでしょうか。

そのことより,インターネット難民などということなど現在問題になっていることが多くの場面で起きている現状を考えますと,早急な廃止も含めた派遣法の見直しが必要ではないでしょうか。

雇用の不安定さ,賃金の低下など,社会不安の一因になっていると思うのです。

場合によっては今回の悲惨な事件の発端もそのあたりにあるかもしれないのではないでしょうか。

何はともあれ,派遣を専門にしている会社が合法化されているところから考えることが,これからの社会を形成して行く上で必須と考えますが,いかがでしょうか。

2008-06-10

詳細に語ることは再発を防ぐためにしなくてはならないのでは

悲惨な映像が繰り返し流されています。

さらに詳細な情報が加えられています。

中には手口に相当することもです。

以前にも触れましたが,あれだけテレビの影響が大きいと言われ,また手口を参考にしている者がいると自ら報道しておきながら,この報道の気遣いのなさは何なのでしょうか。

詳細に語る内容が異なるのではないでしょうか。

ビジネスの世界で何か起きれば,再発を防止するための知恵を絞る努力を,企業であれば考え,実践しているはずです。

ビジネス分野のコンサルタントはそのように指導なり,コーチングなりをしていると思います。

このように行っている分野があり,またそのように指導なりをしている専門家がいるのに,この有様は想定できないのですが。

いかがでしょうか。

このような悲惨なことが起きることを幾らかでも防ぐための報道方法は考えられないものでしょうか。

この辺りの研究をされている学者の方々の発言を期待するものです。

2008-06-09

今急がなくてはならないのは研究では

悲惨な事件が昨日もおきました。

人を殺めることが日常化しつつあります。

死刑や終身刑などの議論はありますが,あまりにも何故そのようなことが起きてしまうのかを追求する研究の話が出ていないことが気がかりです。

裁判も原因究明にはあまりにも場違いです。

犯罪の専門家のコメントを聞いていても,あまり専門的な視点を感じられないのは私だけでしょうか。

まさに現在最も優先的に研究予算を配分しなくてはならない分野はこの分野ではないでしょうか。

お金を使うべきと言っているのではありません。

このような悲惨な事件を起こす人が出現する環境を研究するのです。

個々の人の性格に原因を求めるのではなく,そのような人をどのような環境が出現させるのかの原因を探る研究です。

「犯罪なんとか学」という枠組みではなく,組織的な枠組みによる研究です。

専門のシンクタンクのような組織を一時的につくり,組織的に研究するのがあるように思えるのです。

まずどのような研究者が必要で,研究者をどのように育成するかとか,犯罪の原因をどの情報に求めるのかとか,その情報をどのようにして収集するかなどから始めることが必要かもしれませんが。

はやく手を打つべき課題だと思うのですが。

いかがでしょうか。

2008-06-06

今の教育は学者を育てる教育ではないでしょうか

読み書き,ソロバンから義務教育が導入された明治時代,教育の方向は真に考えられた結果だったのでしょうか。

今われわれが受けてきている教育,特に小学校,中学校の義務教育の方向性はどこか異なっている方向に行ってはいないでしょうか。

全ての人が学者にでもなるような内容になってはいないでしょうか。

日頃に必要なものの考え方が入っていないのではないでしょうか。

例えば,コストという考え方であり,維持管理という考え方などです。

何かをするには必ず費用がかかり,その費用とその効果を計って,費用が効果よりも大きなものになっているなら,本当にそのことを行うべきかを考える契機にすべきなのです。

また建物なりを建造すれば,その後建物を撤去するまでの間,修理費,電気代,清掃代などの維持費用が必ずかかるのです。

それも10億円の建物を立てれば,建築費用の10から20%程度の維持費用が毎年必ずかかるのです。

昨今,いろいろなところで建屋の存続が問われる場面が増えてきていますが,何かその辺りのことが見落とされているように感じるのですが,いかがでしょうか。

その主な要因には,教育の内容にこのような事柄が触れられていないからではないでしょうか。

これらは一例ですが,このようなことが沢山あるように思えるのです。

今まさにいろいろな場面に遭遇した時に,現在の教育内容を見直すことも必要ではないでしょうか。

2008-06-05

明治維新に切られた価値観 - 絵画編

若冲の絵をご覧になったでしょうか。

現代に通じるフォルムや技法を感じないでしょうか。

明治以前のわが国にも美術に相当する文化が存在していたのです。

しかし,それは明治維新とともに切り捨てられてきたのではないでしょうか。

欧州からの美術の導入により,油絵の具による技術が大きくクローズアップされることになり,わが国に芽生えてきた個性のある絵画が見直されることなく,駄目のレッテルを貼られたように感じます。

明治からこのかた日本画と称される絵画には独自性や個性を感じるフォルムや技法の片鱗すら感じられない作品ばかりのように感じるのは私だけでしょうか。

能が現代に通じる抽象化された動きなどの表現を持ち合わせているのと同じように,明治維新以前の絵画にはピカソやマチスに肩を並べることの可能なものがあると感じるのです。

しかし,これらの系譜はどこに行ってしまったのでしょうか。

この辺りも,明治維新の立役者に絵画の素養が備わっていなかったからと判断するのは早急でしょうか。

明治維新を素直に考察することによって,現代の問題を解決する糸口を探したいものです。

いかがでしょうか。

2008-06-03

明治維新に切られた価値観 - 建築編

唐招提寺の修復の報道があったと思います。

明治時代の修復に,日本の建築には無かったトラスが導入されていることが解体のなかで分かったそうです。

今回の修復でもそのトラスが除去されることなく,活用される判断がされたようです。

近代技術で修復することは他の分野でも行われており,とやかく言うことではないとは思います。

しかし,修復の報道のなかで,それを行った大学の専門家は欧州に留学した士族のようです。

その専門家は留学先の教授から幾度となく「日本の建築について知っているのか」と言われた時に何度も「知らない」と答えたとのことです。

どこまで本当かは確かめようがありませんが,そうだったのではないだろうかと推察されます。

明治維新に活躍された人材はほとんで士族で,しかも下級士族です。

下級といっても差別しているわけではありません。

地位についていない士族が明治維新の中心となった人材だったと思います。

それを考えますと,今で言う教養はあまり期待できなかったのではないでしょうか。
日本の建築様式や建築技術など。

ここで仮説ですが,明治維新で建築の世界でも江戸後期まで築き上げてきた建築様式が見直されることなく,捨て去れて来たと考えるのは考えすぎでしょうか。

戦後に高層建築がすばらしいことのように感じるわれわれを作り上げてきたのも,その辺りに通じることのような思えてならいのですが,いかがでしょうか。

もう一度われわれの住まいの建築様式を見直すことが必要な時期に来ていると思うのですが。